教えのやさしい解説

大白法 502号
 
南 無(なむ)
「南無」とは、『御義口伝(おんぎくでん)』に、「南無とは梵語(ぼんご)なり」(御書一七一九)
とあるように、サンスクリット語の音訳(おんやく)で、帰命(きみょう)、度我(どが)、驚怖(きょうふ驚覚きょうかく)、尊敬(そんぎょう)、信順(しんじゅん)、稽首(けいしゅ敬礼きょうれい)などの意義が含(ふく)まれています。
 帰命とは、「命を帰(き)す」ということ。信仰の対象である本尊に自らの命を帰す、ということです。
 度我とは、自らの苦悩を解決するために「我を度し給え」と願うことをいいます。
 驚怖(驚覚)とは、「恐れおののく」(驚(おどろ)かせ、目覚(めざ)めさせる)ということ。衆生の不覚(ふかく)惰眠(だみん)を正す(目覚めさせる)ことをいいます。
 尊敬(そんぎょう)とは、「尊(とうと)び敬(うやま)う」こと。仏を拝(おが)み、尊ぶことをいいます。
 信順とは、「信じしたがう」ということで、我(が)を捨てて仏を信じ、仏の教えに随(したが)うことをいいます。
 稽首(敬礼)とは、インドにおける最上の敬礼で、頭(こうべ額(ひたい)を足につけて礼拝(らいはい)することをいいます。身体(しんたい)をもって尊敬(そんぎょう)を表すことです。
 この中でも、身口意(しんくい)の三業(さんごう)によって「南無」し奉る帰命こそ、最(もっと)も徹底(てってい)した信仰の姿といえます。
 日蓮大聖人は、『白米一俵(はくまいいっぴょう)御書』に、
「漢土(かんど)・日本には帰命と申す」(御書 一五四四)
と仰せのように、「南無」を帰命の意(い)としてとらえられ、同抄には引き続き、過去の聖者(しょうじゃ)は仏に命を捧(ささ)げ奉(たてまつ)って仏になることができた、と説かれています。
 しかし、大聖人は、各人(かくじん)の好(この)みにより、好き勝手に仏に帰命せよ、と教えているのではありません。
『本尊問答抄』に、
「本尊とは勝(すぐ)れたるを用(もち)ふべし」(御書 一二七五)
とあるように、大聖人は、釈尊一代(いちだい)仏教を五重相対判(ごじゅうそうたいはん)によって従浅至深(じゅうせんしじん)し、本因(ほんにん)下種の妙法を説き明かされ、末法の衆生を救済すべく三大秘法総在(そうざい)の御本専を建立(こんりゅう)あそばされて、その御本尊に対する絶対の帰命を教えられています。
 すなわち、『御義口伝』に、
「帰命に人法之(これ)有り。人(にん)とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり」(御書 一七一九)
とあるように、久遠元初(くおんがんじょ)の教主釈尊の再誕(さいたん)・日蓮大聖人に帰命し、久遠元初の法華経である文底(もんてい)下種の南無妙法蓮華経に帰命し奉るべきことを教えられています。それは人法一箇(いっか)・本門戒壇の大御本尊への帰命に他(ほか)なりません。同抄に、
「帰とは我等が色法(しきほう)なり、命とは我等が心法(しんぽう)なり。色心(しきしん)不二(ふに)なるを一極(いちごく)と云(い)ふなり」(前 同)
とあるように、私たちは大御本尊を受持し、余念(よねん)なく題目を口唱(くしょう)することによって、我ら凡身の色心は、そのまま本仏の色心と冥合(みょうごう)して、凡夫そのままの姿で即身(そくしん)成仏(一極)を遂(と)げることができるのです。